日だまりサロン

このブログでは、子育て、夫婦、介護など日常の中で感じた事を日記として掲載していきます。

日だまりサロン 相模原障がい者施設殺傷事件に思う

7月26日相模原障がい者施設殺傷事件が起きた後、とても考えさせられました。   日だまりサロンに来られているお母さんの中に、障がい者施設に勤務している方がいて家族の大変さを聞いていたからかもしれませんが、どのように考えたらいいのだろうかと。

そんな中で、7月28日の新聞で、向野幾世先生の書かれた本、「お母さん、ぼくが生まれて ごめんなさい」(扶桑社)を知って読みました。

 

僕が生まれて ごめんなさい

ごめんなさいね おかあさん

ごめんなさいね おかあさん

ぼくが生まれて ごめんなさい

ぼくを背負う かあさんの

細いうなじに ぼくはいう

ぼくさえ 生まれなかったら

かあさんの しらがもなかったろうね

大きくなった このぼくを

背負って歩く 悲しさも

「かたわな子だね」とふりかえる

つめたい視線に 泣くことも

ぼくさえ 生まれなかったら

ありがとう おかあさん

ありがとう おかあさん

おかあさんが いるかぎり

ぼくは生きていくのです

脳性マヒを 生きていく

やさしさこそが 大切で

悲しさこそが 美しい

そんな 人の生き方を

教えてくれた おかあさん

おかあさん

あなたがそこに いるかぎり

 

脳性マヒの診断にガク然

やっちゃん—山田康文君は昭和35年奈良県桜井市で生まれました。3人兄弟の真ん中で、両親の他に曾祖母、祖父母もいる大家族でした。

生後12日目から3日間38度5分の熱が続き、重症黄疸が出てきました。お乳を吸う力がほとんどなく、8ヵ月目に脳性マヒの宣告を受けました。

母親の京子さんは、望みをかけて、やっちゃんをおんぶして大学病院めぐりをしました。近代医学の治療だけでなく東洋医学のハリ、指圧の治療も漢方薬も買い求めて飲ませました。科学からも医学からも見放された親子にとって残された道は信仰でした。

心無い言葉に涙

やっちゃんを背負って公園に行っても指さされ、車いすに乗せて兄弟の授業参観に行っても、奇異な目で見られ、ヒソヒソと話す人達の冷たい視線に耐えなければなりませんでした。

食事に2時間もかかる

5歳ごろから日々の訓練が実って、食べ物は家族と一緒のものを食べました。パンでも肉でも野菜でも、ことごとく細かくちぎって食べさせるのです。口がうまく開いてくれないので、こぼしやすく2時間もかかるほどでした。

すぐにへんとう線をはらしたり、熱を出したりしました。麻疹やインフルエンザが流行り始めると真っ先にかかっていました。お母さんが少しでも油断すると、たちまち病気になってしまうという感じで、やっちゃんの健康に絶えず心を配っていなければなりませんでした。歯を食いしばって生きてきたお母さんですが、精根尽き果てるとき、一緒に死のうと思ったことが数え切れないほどありました。

それを押しとどめたのは、家族ぐるみの温かい支えと、なんといってもやっちゃんの生きる意欲でした。ちょっとしたことでも、細い体をくねらせて、体全体で生きる喜びを表すのです。

やっちゃんが詩をつくった

やっちゃんは相手の言葉は理解できますが、自分は一切しゃべれず、「アーアー」というような声になるだけです。唯一のコミュニケーションの手段が目と舌。ウインクはイエスのサイン、ノーノー、いやだと舌を出します。養護学校で担任の向野幾世先生に出会ったことは幸運でした。ある時、ボランティアサークル「たんぽぽの会」が、養護学校の生徒の作った詩にメロディーをつけて、フォークコンサートを開くことになり、やっちゃんも詩を作ることに挑戦しました。先生は、やっちゃんの舌を出すことと、目をつぶること、そして全身の緊張という障がいを使って、話をすることで、ことばのノート整理を始めたのです。先生はやっちゃんの言いたいことを想像し、思い浮かぶ限りの言葉を口に出します。やっちゃんは納得する言葉が出るまで舌を出し、「それ!」という時に目をつぶります。こうして気の遠くなるような時間をかけてできたのが、最初の詩でした。

「わたぼうしコンサート」の当日、文化会館大ホールは満員。歌になった生徒達の詩が次々に披露されました。やっちゃんの詩は、メロディーを担当した青年は、歌になる前に、胸が詰まってどうしても歌にできず、朗読することになりました。お母さんと車いすのやっちゃんが舞台で紹介され、向野先生がその詩を朗読しました。

会場は、言葉では言えない衝撃と感動の渦に包まれていきました。

参加した人達の心を突き動かした歌とやっちゃんの詩は、全国に大きな波紋を呼びました。レコードになり、ラジオ、新聞、テレビで紹介され、わたぼうしコンサートの全国公演になって、障がい者のための「たんぽぽの家」の建設へとつながっていったのです。やっちゃんとお母さん達の思いが”わたぼうし”に なって心から心へと広がっていったのです。

やっちゃんは、コンサートから1カ月半後、亡くなりました。昭和50年6月11日、6月2日の15歳の誕生日を迎えた直後でした。

 向野先生は、「ごめんなさいね おかあさん」というフレーズは、やっちゃんにとって「ありがとう おかあさん」という言葉と背中合わせになっている、といいます。

「あの子の詩は、障がい者が『ごめんなさいね』なんて、言わなくても済むような世の中であってほしい、というメッセージ。今もこうして、皆さんの心に、呼びかけ ているんですね。いま、障がい者の問題は、高齢者の方たちの問題でもあります。『老いる』と言うのは、障がいが先送りされているということ。歳をとると、足腰が不自由になって車椅子が必要になったり、知的障がいになったり、、、、。健常者の方も、たいていはいつか障がい者になるんですよ。だから、やっちゃんたちは 私たちの先輩。世の中をより良くするよう切り開いてきた、パイオニアなんです」

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そういえば、私の母も93歳になり、とてもとても、健康で頑強だった母ですが、今は車椅子。認知症もでてきています。亡き義母も、亡くなる前は、車椅子で、何も一人では出来なくなっていました。

そう考えると、障がい者問題は、他人ごとではなくて、しっかりと向き合って考えておかなければならない事ではないでしょうか?

ある朝の朝礼で、校長先生が、「君たちは、体は不自由なんだけど、心は健康だから・・・」と話されたそうです。健常者であっても、心が健康でない人がいる。障がい者であっても、心は健康な人もいる。

やはり、心が健康であるかどうかがとても重要だと思います。相模原の、事件を起こした人は、健常者だったかもしれませんが、心が健康ではなかったのだと思います。外見や、地位、名誉、金力、知識力、以上に心の健康を高められるようにしていかなければならないと深く考えさせられました。

今回も、色々なお母さん達が集まりました。

語り合いながら、共感したり、自分の足りなさを感じたり、お母さん達の頑張りを感じたりして、とても学ばせていただきました。

「日だまりサロン」

 

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